「インスタントな快」について
いまの日本も本の洪水に見舞われているが、本の洪水を嘲笑うより、もっと嘲笑うべきものが多い。メール、Twitter、テレビ等々、「蠅のように大量に孵化する」ものはたくさんある。
バスの中で、思い出す。
キーボードを家に忘れた。
いつもと気分を変えて、外でブログを書きたかった。
まあ、キーボードがなくても何とかなる。
外での作業はあまり慣れないが、たまにはいい。
自宅だと、別のことに気を取られてしまうから。
外では書く以外の選択肢が少ないのがいい。
集中しやすい。制限することの効果は大きい。
構想はアナログでまとめる。
いまだに紙とペンを使う。
頭の中が整理され、思考が広がりやすい。
その後のアウトプットがスムーズに進む。
それと、僕はディスプレイで目が疲れやすい。
紙とペンでまとめて、それからPCで清書した方が、疲れない。
PCで清書するときは、より適切な表現が浮かびやすい。
目が疲れるか手が疲れるかの、選択の問題。
ここから本題。
余裕のある人たち
ニュースを見ていて思うのは「皆、よくそんなに他人に興味があるな」ということ。
それについて論じることが、何か自分の為になるのだろうか、と思う。
ゴシップのニュースに反応している人々は、
そのニュースに言及することで何を得られているのだろう。
僕は「インスタントな快」という言葉を好んで使っている。
この言葉は、ポジティブな言葉ではない。
インスタント = 手軽な
快 = 快感、快楽
手軽に手に入れることができて、その瞬間は快感を覚えるが、
数日もすれば忘れ去られてしまうもの。
ストックされない。記憶に定着されない。
目の前を流れたらもう、興味は次の快楽、
「インスタントな快」に移ってしまう。
TwitterなどのSNSは週刊誌やテレビの受け皿と化した。
そんなSNSの炎上やバズりを無視して、
本当に価値のあることだけをゆっくり考える場を作りたい。
現代のインターネットは速すぎる。
「インスタントな快」。
SNSにおける「いいね」や「拡散」。
行動に対して返ってくる評価や反応。フィードバック。
反応する側にしてもされる側にしても、
SNSの普及後は、特にそれが容易に得られるようになった。
なぜなら、それを送ることが容易だから。
指先ひとつ、ワンタップで済むから。
分かりやすいニュースは好まれるからね。仕方ない。普段何も生み出してない人でも分かりやすいニュースで分かりやすい仮想敵を作れば、クソみたいな正義感を振るうのは容易だから。何も面倒じゃない。それらしい意見に1タップ、拡散するだけ。下らない。僕らは「インスタントな快」から遠ざかるべき。
最近だと、吉本興業に所属する芸人の、闇営業のニュース。
闇営業ひとつでここまで盛り上がることのできる日本のメディアと、
それを「コメントや拡散」で消費することに時間のロスを感じない人たちは余裕あるな、と思う。
真似できない。自分にはとても、そんな余裕はない。
そんな時間があるなら1つでも多く物を知りたいし、何かを作りたい。
その出来事が、自分に不利益を与える恐れがあるなら、分かる。
そういった恐れがないなら、言及をすることで、自分の生活にどんな影響があるのか?
ネットは完全にワイドショーの2軍と化した。週刊誌が、いつでも無料で自宅に届くようなもの。昔は雑誌という媒体を手に取らないとこの手の話題が目に入るなかった。いまは殆どの人が逃れられない。ネットはインフラと化したから。意識して「インスタントな快」を遠ざける必要が出てきた。
もちろん、ネットが普及する前は表面化していなかった問題が明るみに出たのは、
人々の興味や関心が「可視化」されるテクノロジーのおかげでもあるけれど。
メディアがこぞって分かりやすいニュースばかり報道するのは、
そういったニュースを好んで消費する僕たちにも責任はある。
ほんの少しだけ。
2016年の記事だが、 興味深い記事。おすすめ
本日はここまで。