「現実」の選択と没入について
はじめのところから始めて、終わりにきたらやめればいいのよ。
ソーシャル性の強い現代のインターネットでは、
ときに、他人の感情が一気に押し寄せてくる。
昨日の記事では、情報との離れ方について述べた。
情報の洪水の中にある僕たちに必要なのは、
情報から離れ、心を守ること。
今日は関連して「現実を選ぶこと」についての話。
さて、昨日の記事はこの文章で始まった。
つまり、VR/AR/MRやBMIが発達していくと、人間は「現実」そのものを選択できるようになる可能性が高いです。いくつかの現実のチャンネルを切り替えて、自分が最も居心地が良い世界を自分にとっての「現実」と選択するようになります。
この言葉は、佐藤 航陽さんの著書「お金2.0 新しい経済のルールと生き方」から引用した。 引用部分の話で書かれていたことを大雑把にまとめると…
- 人間が労働とお金から解放されると、膨大に時間が空く
- エンターテイメントが主要な産業となり、いかに精神的に充実させるかが追求される
- デバイスによって現実を強化したり拡張したりする一方で、脳とコンピュータを接続して人の認識そのものを書き換えてしまうような技術も発達していく
※BMI…脳とコンピュータを直接つなぎ、脳そのものを制御したり、脳を使ってコンピュータを動かしたりすることを可能にする技術
おおよそ、そういった内容。
将来的には「現実」も選ぶ時代になるかも知れない
とも記されていた。
現在でもヘッドマウントディスプレイなどのVR技術において、少なくとも「視覚」「聴覚」における没入感は得られている。
数は少なく高価なものが多いが「触覚」にも対応するデバイスも存在する。
後は「味覚」「嗅覚」だが、ここはまだまだ課題は多い。
とはいえ、SFの世界はそう遠くない未来にあるだろう。
現代でも既に複数の「現実」を持つ人は増えている
「お金2.0 新しい経済のルールと生き方」では、このようにも書かれていた。
ある女性のインスタグラマーが髪にカーラーをつけたまま外に出て、インスタにアップする写真を撮る瞬間だけカーラーを外すという話を聞いて、彼女にとってはインスタの世界がメインの「現実」であり、それ以外の世界はサブと認識しているのだと思いました。
これは頷かずにはいられなかった。
そしてこの例は、特異な例ではない。
僕らも、かつてのお茶の間の談笑を、
Twitterのタイムラインに求めているじゃないか、と思う。
僕らは見ているテレビの感想を、いま近くにいる人ではなくて、
遠くのフォロワーに向けて発している。
「心地よさ」を優先しすぎること
夢を見たことはあるか?現実としか思えないような夢を。夢から起きられなくなったとしたら、どうやって夢と現実の世界の区別をつける?
心を守るために情報を遮断することは有効だが、副作用もある。
「見たいものしか、見ない」があまりに過ぎると、
そこから抜けだせなくなってしまう恐れがある。
「視覚」と「聴覚」がメインの今のインターネットでさえ没入してしまうのに、
そこから五感の多くを補完できるようになったら、どうなってしまうのか。
――コントロールできるうちに、逃げろ。
「クラインの壺」という小説をご存知だろうか。
1989年に刊行されたもので、岡嶋二人による仮想世界を題材にした作品だ。
ヴァーチャルリアリティ・システムの制作に関わることになった青年が、仮想現実に入り込み、やがて、自分のいる世界が現実か仮想か区別できなくなっていく…
というストーリー。未読の方には是非おすすめしたい。
おわりに
昨日の記事を補完するつもりで書いたが、
テクノロジーの進化に対する危機感を持ち始めると、キリがない。
「AIこわい」にも近いものがある。
進化は受け容れつつも、選択は慎重にしていきたい。