【N64】『ゴールデンアイ007』はなぜ色褪せない名作なのか(続)
NINTENDO64ソフト「ゴールデンアイ 007」。
発売から20年経った現在も、色褪せることのない名作である。
我が家ではまだまだ現役。いまでも友人とプレイするゲームのひとつだ。
このゴールデンアイ007の魅力を、ほんの一部だけ紹介したい。
今回は、前回だけでは語りきれなかった「シングルプレイ」の魅力について言及する。
前回のエントリはこちら
結論からいうと、
シングルプレイが高いリプレイ性を持っているから
である。
シングルプレイがもつ「リプレイ性の高さ」
ゴールデンアイといえば、2~4人対戦のマルチプレイを思い浮かべる人も多いだろう。しかし、このゲームを確固たる名作と言わしめる要素として、シングルプレイ(ミッションモード)の存在は無視できない。
特筆すべきは、その「リプレイ性」である。
クリア後も、繰り返し遊びたくなる魅力がある。
キーワードは「工夫、そして馬鹿らしさ」だ。
ミッションモードは総じて良い出来ではあるものの、
普通にプレイしている限りは、決して自由度の高いゲームではない。
ミッションモードは…
・1本道である(物理的な道ではなく、ストーリーの分岐)
・エンディングは1つだけ(マルチエンディングではない)
・各ステージで使える武器は予め決まっている
・武器や主人公を強化する要素もない
この通り「普通にプレイ」した際に、
目に見えて分かりやすい形の「やりこみ要素」が存在しない。
特定のアイテムを収集したり、敵を殺した数(または、殺さなかった数)によってトロフィーが得られたりするわけでもない。
ミッション終了後に敵を殺した数や弾の命中率などがリザルトとして表示されるが、それらは何の報酬ももたらさない。
では「普通ではない」プレイとは何か?
これが、ミッションモードが高いリプレイ性を持つことのヒントだ。
ここで、先ほどのキーワードが出てくる。
「工夫、そして馬鹿らしさ」。
ミッションを進めるうえでの「工夫」
なぜ、一度クリアしたステージでも繰り返しプレイしてしまうのか?
それは、ミッションモードの不自由さの中にあっても、可能な限りの自由なプレイを試行錯誤することができるから。
ほんの一例ではあるが、例えば「化学工場」のステージでは…
予め化学工場に潜入していた仲間のドーク博士(*1)と接触するミッションがあるが、接触した後であれば、彼を殺害してもミッションには影響しない。「科学者の被害を最小限に」との任務が存在するが、ドーク博士は科学者としてカウントされているため、最大殺害可能人数の3人を超えない限りは大丈夫。ちなみに筆者はこのステージをプレイする際、ドーク博士を高確率で殺害している(最低)。
不自由の中の自由「馬鹿らしさ」
ミッションモードを一定の条件でクリアすることにより追加される「お楽しみモード(チート)」によって、任務の遂行を楽にするだけではなく、馬鹿馬鹿しい遊び方を無数に見つけることができる。
ほんの一例ではあるが、例えば「銅像公園」のステージでは…
ミッションの最後に、防衛大臣のデミトリ・ミシュキンに連行してしまうボンド。
銅像公園の門を開けるとムービーが開始されるが、予めモーションセンサー爆弾を門の外に配置しておくことで、ムービー中のキャラクター(ミシュキン、ロシア兵、ナターリア)を殺すことができる。
なお、ムービー中のキャラクターの生死は任務の達成になんら影響を与えない。(一方、ムービー開始前にミシュキンやナターリアを殺してしまうとその時点で「任務失敗」となる)
こういった「不自由の中の自由」を楽しむために活用できるお楽しみモードは全23種類。
代表的な例としては
・全ての武器を手にした状態でミッションを開始できる「オール武器モード」
・銃撃・爆撃でのダメージを受けなくなる「無敵モード」
・プレイヤーが敵に認識されなくなる「透明人間モード」
などが挙げられる。
銃撃戦を有利に進めるモードが大半を占めているが、お楽しみモードの真価が「いかに馬鹿馬鹿しいプレイングができるか?」であることは、先の銅像公園での楽しみ方を見てもらえれば分かるだろう。
次のエントリでは、各お楽しみモードでの楽しみ方・小ネタを紹介していく。
(続く)
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<注釈>
*1 ゲーム脚本を担当しているDavid Doakその人だったりする。なお、ゲーム内の敵キャラクターには全てレア社社員の顔写真が使われている。